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東京地方裁判所 平成3年(ワ)18922号 判決

原告 X

右法定代理人後見人 A

右訴訟代理人弁護士 惠崎和則

右同 荻原富保

被告 住銀保証株式会社

右代表者代表取締役 B

右訴訟代理人弁護士 高津李雄

右同 安藤武久

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告に対し、別紙物件目録〈省略〉の不動産について、別紙抵当権目録〈省略〉の各登記の抹消登記手続をせよ。

第二事案の概要

本件は、訴外C(以下「C」という)が、原告には他の目的に使用すると述べて、原告から、原告所有の別紙物件目録〈省略〉の不動産(マンションの専有部分と敷地持分、以下「本件不動産」という)の権利証を持ち出し、原告の印鑑証明書の交付を受け、売買契約書や登記委任状に押捺させ、これを用いて自己に本件不動産の所有権移転登記を経由し、訴外株式会社住友銀行(以下「住友銀行」という)から合計一億円を借りて、右債務の委託保証人である被告のために別紙抵当権目録〈省略〉の抵当権設定登記(以下「本件登記」という)を経由したものであるから右登記は無効な登記であるとして、本件不動産所有権に基づく妨害排除請求として右登記の抹消登記手続を求めた事案である。

一  争いのない事実

1  原告は、訴外株式会社プランナーとの間で昭和六三年六月三〇日売買契約を締結して本件不動産の所有権を取得し、その旨所有権移転登記が経由された。

2  別紙物件目録〈省略〉の各土地について、原告からCに対して、昭和六三年一一月七日売買を原因として、所有権移転登記目録〈省略〉の各所有権移転登記が経由されている。

3  原告は、原告とC間の、本件不動産を売買代金九八〇〇万円で売り渡す内容の昭和六三年一〇月一日付け売買契約書(乙一の4、以下「本件売買契約書」という)及び本件不動産の原告とCの昭和六三年一一月七日売買を原因とする所有権移転登記を委任内容とする委任状(乙一の5、以下「本件委任状」という)に署名捺印した(但し、署名押印当時の本件売買契約書の原告署名捺印部分の用紙と本件売買契約書の一体性及び本件委任状の記載内容並びに原告の認識について争いがある)。

4  Cは、本件不動産を担保として、住友銀行から昭和六三年一〇月二九日頃七〇〇〇万円を、同年一一月二六日頃三〇〇〇万円を借り受け、同日、原告のために被告を抵当権者とする本件登記を経由した。

二  争点

本件の争点は、1 本件売買契約の存在、具体的には本件売買契約書及び本件委任状が原告の意思に基づいて作成されたものか、2 また、本件売買契約書作成当時、原告は意思能力を欠いていたか、3 仮に、本件売買が通謀虚偽表示であった場合、被告は善意であるか。

1  原告

(一) 本件不動産の売買契約の不存在

(1) 原告は、本件不動産を居住用に購入し、現に係を住まわせていたのであるから、そもそも本件不動産を売却することを承諾するはずがない。

原告は、本件売買契約書が作成された当時、夫の看病にかかりっきりの状態で煩わしいことはCに任せていた。また、Cは、原告の痴呆状態が悪化しているのに乗じて、本件売買契約書や本件委任状に内容を認識させないようにして原告に署名押印させたのである。

したがって、原告は、その内容を理解して署名押印したのではない。

(2) 本件売買契約書の原告署名欄は、右契約書の最後の頁であり、原告が署名した当時は右契約書と離された白紙の紙であり、「売主」「買主」の記載もなかった。これは、右契約書に割印がなく、収入印紙が右契約書冒頭にないことからして、原告が本件不動産を売却する意思がないことを知っていたCが巧妙な手段を用いて原告に署名押印させたことを明らかに示している。

(3) 本件委任状は、原告が署名押印する際、不動文字以外は空白であった。登記義務者欄が「D」から「X」と訂正されたまま使用されているが、原告が知っていればこのような侮辱的表現のままであることはない。

本件委任状には、不動文字で「所有権移転登記」とか「登記権利者(買主)」、「登記義務者(売主)」とか印字されていたが、それだけでは具体的な売買の目的物は不明であり、Cは、具体的な説明を行わず、「ちょっとした書類にサインして欲しい」とか、「いろいろな作業に必要な書類にサインして欲しい」と話して原告から署名捺印を受けたのであり、原告には本件委任状の内容を理解していなかった。

(4) 本件不動産の権利証及び印鑑証明書は、Cが原告を騙して、ほかの用途のための使用と思わせて原告から交付を受けたり、持ち出したりしたのであって、原告には本件抵当権設定に使用されるという認識はなかった。

(二) 意思能力の欠如

原告は、夫の看病で閉じこもりがちになって老人性痴呆症が進行し、昭和六三年頃にはかなり悪化して、明らかな奇異行動をとるようになり、平成二、三年頃には明らかに心神喪失の常況にあった。

したがって、本件売買契約は、原告が意思能力を欠く状態で締結したものであるから無効である。

(三) 被告の重過失

(1) 本件における原告やCと被告との折衝は、被告の事務を取り扱っていた住友銀行行員のE(以下「E」という)が一切行った。

したがって、被告は、本件抵当権設定契約及び保証委託契約締結の代理権をEに与えていたというべきであるから、被告の善意悪意はEについて判断されるべきである。

(2) ところで、当初融資実行日たる昭和六三年一一月七日は、原告を含めて関係者が参集することになっていたが、Eは、その数日前に、買主であるCから原告が病弱で欠席する旨連絡を受けたから、原告の年齢等からことの真偽を疑うべき客観的事情にあった。

本件売買契約書をみても、仲介業者が関与せず、契約書自体の形式が異常であり、売買代金全額の融資ではなく一部であるのに所有権移転登記を完了してしまうこと、売買契約書の代金支払時期を徒過していたことから、Cに融資するには躊躇すべき点が多くあり、原告の意思を確認する時間が十分あったのに、Eは、原告に確認の電話すらしなかった。

(3) したがって、Eに重大な過失があることは明らかである。

2  被告

(一) 原告とCとの本件不動産の売買契約

(1) 原告がCに対し本件不動産を売り渡したことは、本件売買契約書及び本件委任状から、また、権利証や印鑑証明書等所有権移転登記に必要な書類が用いられてCに対し所有権移転登記されていることから明らかである。

本件売買契約書の署名捺印欄には、不動文字で「売主」「買主」の記載があり、原告が署名する際にその文字が見えないわけはない。

本件委任状には、不動文字で「所有権移転登記」とか「登記権利者(買主)」、「登記義務者(売主)」とか印字されていて、登記義務者(売主)の直近に原告の署名捺印があることから右不動文字が目に入らないわけはない。本件委任状は、訴外石黒事務所が住友銀行築地支店の依頼に基づき作成して同支店に渡し、同支店からCに渡され原告が署名捺印したのである。

実印と印鑑登録カードは原告が保管し、印鑑証明書(乙一の6、7)は本件抵当権設定契約の日である昭和六三年一一月七日の直前の同月五日に原告自身が交付を受けている。

原告は、常識として、不動産の売買には、売買契約書、委任状、印鑑証明書、権利証が必要であることを知っている。

原告は、Cに対し全幅の信頼を寄せていたから、本件契約書や本件委任状にめくら判を押していたというが、そうだとすると、売買の対価をCに管理させまたは管理するのを容認していたことになるであろう。

(2) 以上のとおり、原告は極めて近接した期間内に、本件売買契約書及び委任状に署名捺印し、印鑑証明書の交付を受け、かつ、権利証をCが持ち出すのを認識していたのであるから、原告が本件不動産をCに売却したことは明らかである。

(二) 抵当権の存在

(1) 被告は、Cとの間で、昭和六三年一〇月二九日、同人が住友銀行から借り入れる七〇〇〇万円について保証委託契約を締結したうえ、その求償債権を担保するため、同年一一月七日、C所有の本件不動産について、債権額七〇〇〇万円、損害金年一四パーセント(年三六五日の日割計算)とする抵当権設定契約を締結し、別紙抵当権目録1及び3〈省略〉の抵当権設定登記(以下「本件登記1」という)を経由した。

(2) また、被告は、Cとの間で、昭和六三年一一月二六日、同人が住友銀行から借り入れる三〇〇〇万円について保証委託契約を締結したうえ、その求償債権を担保するため、同月二九日、C所有の本件不動産について、債権額三〇〇〇万円、損害金年一四パーセント(年三六五日の日割計算)とする抵当権設定契約を締結し、別紙抵当権目録2及び4〈省略〉の抵当権設定登記(以下「本件登記2」という)を経由した。

(3) 被告の善意

被告は、右各抵当権設定契約当時、Cが本件不動産の所有者であると信じていた。

仮に、原告とCとの間の本件不動産の売買が担保目的であるとか、Cに騙されたか、仮装譲渡であったとしても、本件売買契約書及び本件移転登記に用いられた委任状は原告の意思に基づいて作成され、本件不動産の所有権移転登記がなされている。

したがって、被告は、本件売買契約を信じて、Cと本件抵当権設定契約を締結した善意の第三者であるから、原告は本件抵当権設定登記の抹消登記を求めることはできない。

第三裁判所の判断

一  証拠(甲一ないし一四、一七、乙一の1ないし三、二の1ないし3、証人C、同E、同F)によれば、被告は、Cとの間で、昭和六三年一〇月二九日、同人が住友銀行から借り入れる七〇〇〇万円について保証委託契約を締結したうえ、その求償債権を担保するため、同年一一月七日、C所有名義の本件不動産について、債権額七〇〇〇万円、損害金年一四パーセント(年三六五日の日割計算)とする抵当権設定契約を締結し、本件登記1を経由し、同年一一月二六日、Cが住友銀行から借り入れる三〇〇〇万円について保証委託契約を締結したうえ、その求償債権を担保するため、同月二九日、C所有名義の本件不動産について、債権額三〇〇〇万円、損害金年一四パーセント(年三六五日の日割計算)とする抵当権設定契約を締結し、本件登記2を経由したことが認められる。

二  そこで、本件売買契約の成立について検討する。

1  本件においては、本件売買契約書及び本件委任状が存在し、いずれにも原告が署名捺印していることは争いがない。

2  ところで、原告は、本件売買契約書に原告が署名捺印した当時、一枚の紙であって、本件売買契約書と一体ではなく、本件委任状も不動文字以外は記載がなかったし、本件売買契約の認識はなく本件不動産等財産管理のために必要かと考えて署名捺印した旨供述し、証人Cも同旨の証言をしている。

確かに、乙一の4(写し)の存在によれば、本件売買契約書は四頁からなり、割印がなされていないように見える。

3  しかしながら、証拠(甲一八、乙一の4の存在、証人C、同G)によれば、本件売買契約書は訴外Gがワープロで作成した書面であり、原告の署名捺印した頁には、原告の署名捺印前にワープロ文字で「昭和六三年一〇月一日」「売主 住所 氏名」「買主 住所 東京都目黒区〈省略〉 氏名」と記載され、印紙二枚(八万円と九万円か判読が困難であるが五桁のもの)が貼付されていたこと、本件売買契約書に原告が署名捺印したのは昭和六三年一一月四日頃であることが認められる(証人Cは、「住所」「氏名」の文字だけはあったと証言するが、ワープロ字全体及び同Gの証言からして信用できない)。

また、証人Cの証言によれば、乙一の4の原本はCが所持しているはずであるところ、Cは、本件訴訟のもと相被告であり認諾しており、原告のために陳述書を提出し証言しているのに、右原本は提出されていないから、本件売買契約書の一体性について原本により吟味することができない状況にある。

そして、証拠(乙一の6、乙一の4の存在、証人C、同A、原告本人)によれば、原告は実印と印鑑登録カードを自分で権利証とは別に保管しているが、本件売買契約書の署名捺印と同時に同頁の右印紙に割印を押していることが認められる。

そうして、全証拠によるも、昭和六三年一一月上旬当時、原告は、本件不動産を除いて原告所有の不動産を売却する予定であったことは窺えない。

4  証拠(甲二〇、乙一の6、7、証人C、原告本人)によれば、原告は、本件不動産の登記済権利証を金庫に保管していたが(昭和六三年六月三〇日に本件不動産を取得した際に受領し保管中)、本件売買契約書及び本件委任状に署名捺印した頃、実印をCに交付し同年一一月五日、印鑑証明書二通の交付を受けて同月七日Cに渡したこと、Cは、同じ頃、原告の了解を得て本件不動産の権利証を保管中の金庫から持ち出したことが認められる。

5  証拠(乙一の5、証人C、同E、同F)によれば、本件委任状に原告が署名捺印したのは、昭和六三年一一月七日であると認められる。

原告が本件委任状に署名捺印する以前に不動文字以外の記載がなされていたことを認めるに足りる証拠はない。

6  以上の証拠関係に加え、証拠(甲一五、一六の1、2、二四、二七、乙三の1ないし8、四の1ないし6、五の1ないし9、証人C、原告本人)によれば、Cは、昭和五三年頃から原告の亡夫G(以下「G」という)の用務や雑用を担当していたが、Gが昭和五九年八月脳梗塞で倒れ、言語が不明瞭となると、頻繁に原告方に出入りするようになり、原告が財産管理関係の経験、能力が十分ではなかったことから、Gや原告の信頼を得て、当時の住居が手狭であることから、本件建物及び同じマンションの一室(九〇七号室、以下「九〇七号室」という)を購入する際、そのための訴外株式会社協和銀行からの二億八〇〇〇万円の借入及び工事費用二五〇〇万円をかけた内装工事を任されるなどし、Cは原告から財産関係を任される状態であったこと、平成元年四月頃及び平成二年八月頃、Cが手続きを進め五〇〇〇万円の融資二回及び同額の融資一回を受けていること、Gは平成三年一月死亡したこと、それまでCは原告から信頼を得て原告方に出入りし、本件不動産を処分することはなかったこと、原告夫妻は九〇七号室で居住していたこと、本件不動産及び九〇七号室の購入にかかる借入金の返済についても原告はCに任せている状況であったことが認められる。

7  確かに、Cが、本件不動産のほかに自己所有不動産を共同担保にして総額一億円の融資を受けていること(乙一の1ないし3、二の1ないし3)や、本件売買代金に当てられるべき住友銀行からの一億円の融資がCの口座に振り込まれた後、原告に渡されずCが使用したこと(甲二二、証人C、原告本人)、本件不動産には原告の孫夫婦が住んでいること(証人A、原告本人)などの事情があるが、右6の事情を考慮すると本件売買契約が必ずしも不合理とまでは言えない。

8  以上の検討及び争いのない事実から、本件売買契約及び本件委任状に原告が署名捺印したときに、通常であれば不動産売買を目的とした書類であると認識できるはずであるし(同年中に本件不動産を購入してもいる)、権利証や印鑑証明書の交付、その時期、原告とCとの関係などに照らすと、本件売買契約書及び本件委任状は原告が内容を認識して署名捺印したのであり、本件売買契約が有効に成立したものと推認される。

三  原告が、本件売買契約当時、老人性痴呆症により意思能力がなかったかについて検討するに、証拠(甲二六ないし二八、証人C、同A、原告本人)によれば、原告が老人性痴呆症の症状を呈するようになったのは、平成三年一月Gと死別した頃から徐々にであり、それ以前は、経済観念に非常識とみられる行動がときおり認められたが、行為の弁識ができないような状態であったとは認めがたい。

よって、原告が、本件売買契約当時、意思能力を欠いていたとの主張は理由がない。

四  以上によれば、本件登記は有効であることになるから、原告の本件請求は理由がないので棄却することとし、訴訟費用の負担は民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 髙橋光雄)

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